勝道館について
東洋舘初代舘長.伊志嶺玄朝先生は、明治42年9月23日沖縄県宮古郡平良市下里に生まれた。
同市小学校1年生の時(1916年・大正5年)より(7才)、当時沖縄で空手の大家として知られる、喜屋武朝徳先生の門下生として師事し、29才で(1938年・昭和13年)師範の免状を許された。蹴りの伊志嶺と言われる足蹴りの名人であった。
昭和29年(1954年)に空手道東洋舘の名称を設立。
昭和36年4月15日に遠山寛賢大師範から範士八段を許される。
昭和56年2月23日・伊志嶺玄朝東洋舘初代舘長他界。
昭和57年 生前に伊志嶺玄朝先生から道場開設を許されていた藤井晴明館長が沖縄正統空手道和心館を発足。
勝道館館長は、病弱だった身体を克服するために15歳から少林寺拳法の修行をはじめ後に沖縄正統空手道野辺武館ともに黒帯を取得するかたわら剛柔流空手道誠志館にて空手とキックボクシングも経験する。
野辺武館の師範は、ベンチプレス150キロを上げ部位鍛錬を徹底的に行い極真空手の全日本大会ににも出場する猛者でした。
沖縄正統空手道和心館発足3年後の昭和60年21歳のときに藤井晴明館長のもとに入門し以後38年間にわたり和心館にて稽古と指導を行う。途中、八光流柔術と大東流合気柔術を並行して修行し黒帯を取得。令和4年10月16日に沖縄正統空手道和心館の藤井晴明館長より範士八段を印許される。
和心館藤井晴明館長は、身体はそれほど大きくはないものの鋼鉄のような身体手足をしており試し割りの達人で、様々な物体を破壊するのを目の当たりにしてきた。
令和4年からは遠山寛賢大師範の沖縄正統空手道遠山会理事 鶴法館館長である範士十段小島淳館長に師事し空手型や古武道 修道館の釵の型を伝授される。
令和4年10月、和心館を退館し遠山流沖縄正統空手道 勝道館を開設。
空手はに型始まり型に終わると言われ、遠山流沖縄正統空手道の6種12の型を伝承することを目的に、空手道、古武道の稽古で、安全に明るく楽しく健康になるがモットーの空手指導を始める。
同市小学校1年生の時(1916年・大正5年)より(7才)、当時沖縄で空手の大家として知られる、喜屋武朝徳先生の門下生として師事し、29才で(1938年・昭和13年)師範の免状を許された。蹴りの伊志嶺と言われる足蹴りの名人であった。
昭和29年(1954年)に空手道東洋舘の名称を設立。
昭和36年4月15日に遠山寛賢大師範から範士八段を許される。
昭和56年2月23日・伊志嶺玄朝東洋舘初代舘長他界。
昭和57年 生前に伊志嶺玄朝先生から道場開設を許されていた藤井晴明館長が沖縄正統空手道和心館を発足。
勝道館館長は、病弱だった身体を克服するために15歳から少林寺拳法の修行をはじめ後に沖縄正統空手道野辺武館ともに黒帯を取得するかたわら剛柔流空手道誠志館にて空手とキックボクシングも経験する。
野辺武館の師範は、ベンチプレス150キロを上げ部位鍛錬を徹底的に行い極真空手の全日本大会ににも出場する猛者でした。
沖縄正統空手道和心館発足3年後の昭和60年21歳のときに藤井晴明館長のもとに入門し以後38年間にわたり和心館にて稽古と指導を行う。途中、八光流柔術と大東流合気柔術を並行して修行し黒帯を取得。令和4年10月16日に沖縄正統空手道和心館の藤井晴明館長より範士八段を印許される。
和心館藤井晴明館長は、身体はそれほど大きくはないものの鋼鉄のような身体手足をしており試し割りの達人で、様々な物体を破壊するのを目の当たりにしてきた。
令和4年からは遠山寛賢大師範の沖縄正統空手道遠山会理事 鶴法館館長である範士十段小島淳館長に師事し空手型や古武道 修道館の釵の型を伝授される。
令和4年10月、和心館を退館し遠山流沖縄正統空手道 勝道館を開設。
空手はに型始まり型に終わると言われ、遠山流沖縄正統空手道の6種12の型を伝承することを目的に、空手道、古武道の稽古で、安全に明るく楽しく健康になるがモットーの空手指導を始める。